江戸時代

江戸時代のうなぎは高級食?値段と庶民の食べ方を解説

夏の土用の丑の日でおなじみのうなぎ。現代では少し特別なご馳走というイメージがありますが、「江戸時代のうなぎ」と聞くと、あなたはどのような光景を思い浮かべますか?

実は、うなぎの蒲焼の歴史や、江戸前と関西での調理法の違いには、興味深い背景が隠されています。

江戸前うなぎを扱う老舗のこだわりや、活気あふれる鰻屋に集う男女の様子など、その歴史は奥深いものです。

また、「昔は安かったのでは?」というイメージとは裏腹に、当時の庶民にとってうなぎの値段は決して安いものではありませんでした。

この記事では、知られざる江戸のうなぎの歴史を紐解き、当時の昔の値段や、階層によって異なった食べ方について、詳しく解説していきます。

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ポイント

  • 江戸時代のうなぎの歴史と文化の全体像
  • 「江戸前」と関西のうなぎの具体的な違い
  • うなぎの本当の値段と庶民の楽しみ方
  • 現代にまで続くうなぎ食文化の原点

発展の歴史に見る江戸時代のうなぎ文化

  • まずは知りたい江戸のうなぎの歴史
  • うなぎの蒲焼はどのようにして生まれたか
  • 江戸前と関西で見る捌き方の違い
  • こだわりが光る江戸前うなぎの老舗
  • 当時のうなぎの粋な食べ方とは?
  • 鰻屋に集う男女で賑わう江戸の風景

まずは知りたい江戸のうなぎの歴史

日本人がうなぎを食べてきた歴史は非常に古く、その痕跡は縄文時代の貝塚からも発見されているほどです。文献として登場するのは、現存する日本最古の和歌集である『万葉集』が有名です。歌人・大伴家持が、夏痩せに悩む知人である石麻呂(いしまろ)に「痩せているのは良くないから、うなぎを捕って食べなさい」と勧める歌を詠んでいます。この歌から、奈良時代には既にうなぎが滋養強壮に良い食べ物として認識されていたことがわかります。

しかし、この頃の食べ方は現代の蒲焼とは異なり、うなぎをぶつ切りにして塩を振って焼いたり、蒸したりするだけのシンプルなものでした。醤油やみりんがまだ普及していなかったため、味付けも素朴だったと考えられます。その後、室町時代になると醤油が作られるようになり、うなぎの調理法も少しずつ進化していきました。江戸時代に入り、濃口醤油やみりんが庶民の間にも広まったことで、現代の蒲焼の原型となる甘辛いタレで付け焼きするスタイルが確立されたのです。このように、うなぎの食文化は日本の調味料の発展と共に歩んできたと言えるでしょう。

補足:大伴家持が詠んだ歌

石麻呂に 吾れもの申す 夏痩せに よしといふものぞ 鰻捕り喫せ(めせ)
(石麻呂さん、私が言っておくよ。夏痩せには良いというものだから、うなぎを捕って食べなさい。)

うなぎの蒲焼はどのようにして生まれたか

現在私たちが親しんでいる「うなぎの蒲焼」という食文化が花開いたのは、江戸時代中期のことです。蒲焼の語源には諸説ありますが、最も有力なのは、うなぎを丸ごと串に刺して焼いた姿が、植物の「蒲(がま)の穂」に似ていたことから「蒲焼」と呼ばれるようになったという説です。

初期の蒲焼は、前述の通りうなぎを捌かずにそのまま焼くスタイルでした。しかし、江戸時代中期になると、屋台などで手軽に食べられるファストフードとして人気が広まります。この過程で、より食べやすく、そして美味しくするための工夫が凝らされていきました。その一つが、うなぎを開いて骨を取り、串に刺して焼くという現代と同じスタイルへの変化です。これにより、タレが絡みやすくなり、火の通りも均一になったのです。

そして、蒲焼人気を決定的にしたのが、夏の土用の丑の日にうなぎを食べるという習慣の定着です。これは、江戸時代の発明家であり、マルチタレントとしても活躍した平賀源内が、夏場に客足が遠のいて困っていた知人のうなぎ屋のために考案したキャッチコピーだと言われています。「本日、土用丑の日」と張り紙をしたところ、店が大繁盛したことから、この習慣が全国に広まったとされています。まさに、歴史的なマーケティングの成功例と言えるでしょう。

江戸前と関西で見る捌き方の違い

うなぎの調理法は、地域によって特徴があり、特に「江戸前(関東風)」と「関西風」では、捌き方から焼き方に至るまで明確な違いが存在します。これは、それぞれの地域の歴史的背景や食文化が影響しています。

江戸前(関東風)は「背開き」で調理されます。これは、武家社会であった江戸では「腹を切る」ことを忌み嫌う切腹を連想させるため、背中から捌くようになったという説が有力です。調理工程としては、一度白焼きにした後、蒸しの工程が入るのが最大の特徴です。蒸すことによって余分な脂が落ち、身がふっくらと柔らかく仕上がります。

一方、関西風は「腹開き」で調理します。商人の町であった大坂(大阪)では、「腹を割って話す」という言葉があるように、腹を開くことに抵抗がなかったためと言われています。そして、関東風と違い、蒸しの工程がありません。白焼きにせず、生のまま金串に刺し、地焼き(じやき)と呼ばれる方法で、皮はパリッと香ばしく、身は脂の乗った力強い味わいに仕上げるのが特徴です。

関東風と関西風の主な違い

項目 江戸前(関東風) 関西風
捌き方 背開き 腹開き
竹串 金串
調理工程 白焼き → 蒸し → タレ焼き 生のままタレ焼き(地焼き)
食感 ふっくら、とろけるように柔らかい 皮はパリッ、身はジューシー
味わい 上品でさっぱりとした味わい 脂の旨味が強く、香ばしい

このように、同じうなぎの蒲焼でも、地域によって全く異なる食文化が育まれてきました。どちらが良いというわけではなく、それぞれの土地の歴史と人々の好みが反映された、個性豊かな味わいと言えるでしょう。

こだわりが光る江戸前うなぎの老舗

「江戸前」という言葉を聞くと、現代では寿司を連想する人がほとんどですが、もともとはうなぎを指す言葉でした。江戸前とは、江戸城の目の前の海、つまり現在の東京湾で獲れたうなぎのことを指し、ブランドとして珍重されていました。具体的には、品川から深川、あるいは隅田川河口あたりで獲れたうなぎが最上級品とされ、それ以外の地域で獲れたものは「旅うなぎ」と呼ばれ、格下の扱いを受けていたのです。

江戸には、この江戸前うなぎを専門に扱う多くの老舗が存在しました。これらの店は、単にうなぎを提供するだけでなく、その質や調理法に強いこだわりを持っていました。例えば、タレは店の命であり、創業以来何十年、何百年と継ぎ足しながら使うことで、他では真似のできない深みのある味わいを生み出していました。この秘伝のタレは、店の歴史そのものであり、のれんを守るための最も重要な要素だったのです。

また、高級店としてのプライドも高く、当時流行していた「うなぎ飯(後のうな丼)」をメニューに載せない店も少なくありませんでした。丼物はあくまで忙しい職人などが手早く食事を済ませるためのものであり、ゆっくりと酒を飲みながら蒲焼を味わうのが粋な食べ方とされていたからです。こうした老舗のこだわりが、江戸のうなぎ文化をより洗練されたものへと高めていったと言えます。

当時のうなぎの粋な食べ方とは?

江戸時代、うなぎの食べ方には庶民的なスタイルと、通人が好む粋なスタイルがありました。現代の「うな丼」の原型とされる「うなぎ飯」が誕生したのは、文化年間(1804~1818)のことです。歌舞伎の興行主であった大久保今助が、芝居小屋で食べるためにうなぎを出前させた際、冷めないように温かいご飯の間にはさんだのが始まりとされています。

この手軽で美味しい食べ方は瞬く間に人気となりましたが、前述の通り、格式のある老舗の鰻屋では提供されませんでした。では、そうした店で通人たちはどのようにうなぎを楽しんでいたのでしょうか。

粋な食べ方とされたのは、まず「蒲焼」を肴に日本酒を嗜むというスタイルです。うなぎが焼き上がるのを待つ間、うなぎの骨を揚げた「骨せんべい」や、肝を串焼きにした「肝焼き」で一杯やり、主役の蒲焼が登場するという流れが一般的でした。蒲焼は重箱ではなく皿で提供され、客はそれをゆっくりと味わいます。そして、締めとして白米と肝吸いを別途注文するのです。このように、うなぎとお酒、そしてご飯を別々に楽しむのが、時間を贅沢に使う大人の楽しみ方とされていました。このスタイルは、現代でも老舗の鰻屋で「蒲焼定食」や「うな重の上」などに見られる、うなぎとご飯が別々に出てくる形式のルーツと言えるでしょう。

鰻屋に集う男女で賑わう江戸の風景

江戸時代の鰻屋は、単なる食事処ではなく、さまざまな身分の人々が集う社交の場でもありました。店先では職人が威勢よくうなぎを捌き、炭火で焼く香ばしい匂いと煙が道行く人々の食欲をそそります。店内は、裕福な商人や武士、文化人などが酒を酌み交わしながら談笑する声で賑わっていました。

浮世絵などにも、鰻屋の様子が描かれています。そこには、店の主人や職人といった男性だけでなく、給仕をする女性や、客として訪れる女性の姿も見られます。もちろん、男女が二人きりで食事をするというのは稀でしたが、家族や仲間内で訪れることはあったでしょう。特に、夏場の土用の丑の日など、特別な日には多くの人々が鰻屋に押し寄せ、店内は大変な活気に満ち溢れていたと想像されます。

出前も人気だった鰻屋

データベースの資料画像にもあるように、店先には岡持ち(出前用の容器)が置かれている様子が描かれています。これは、店内で飲食させるだけでなく、出前も積極的に行っていたことを示しています。忙しい商人や、芝居小屋の役者など、多くの人々が鰻屋の出前を利用していたようです。

鰻屋は、美味しい食事を提供するだけでなく、江戸の活気を象徴する場所の一つでした。身分や性別を超えて、多くの人々が美味しいものを求めて集まる。そうした光景が、江戸の日常の中にあったのです。

なぜ高級食?江戸時代のうなぎの値段と食べ方

  • 昔はうなぎは安かったという噂の真相
  • 気になる昔のうなぎの値段を公開
  • うなぎの値段は庶民にとって高嶺の花
  • 庶民に人気のうなぎの食べ方とは
  • 屋台で楽しむのが庶民のスタイル

昔はうなぎは安かったという噂の真相

「昔はうなぎは安くて、もっと気軽に食べられた」という話を耳にすることがありますが、これは本当なのでしょうか。この噂の真相を探るには、時代をどこに設定するかで答えが変わってきます。もし、これが江戸時代を指しているのであれば、残念ながら「うなぎは決して安くはなかった」というのが事実です。

確かに、うなぎ自体は江戸前の海や川でたくさん獲ることができました。しかし、醤油やみりんといった調味料が高価であったことや、調理に手間がかかることから、完成した「うなぎの蒲焼」は決して安い食べ物ではありませんでした。特に、店を構えるような立派な鰻屋で提供されるものは、現代で言うところの高級ディナーに相当する価格だったのです。

一方で、屋台で売られている串刺しの蒲焼は、比較的安価に楽しむことができました。このため、「屋台で気軽に食べるもの」というイメージと、「高級店で味わうご馳走」というイメージが混在し、「昔は安かった」という噂につながったのかもしれません。結論として、江戸時代のうなぎは、食べ方や店の格式によって値段が大きく異なる、二面性のある食材だったと言えるでしょう。

気になる昔のうなぎの値段を公開

それでは、実際に江戸時代のうなぎはいくらぐらいしたのでしょうか。資料によると、当時流行した「うなぎ飯(うな丼)」は、一般的な店で一杯が64文だったとされています。当時の物価を現代の価値に換算するのは非常に難しいですが、一説には「1文=約30円」で計算されることがあります。

江戸時代のうなぎの値段(推定)

  • うなぎ飯(一杯):64文 × 30円 = 約1,920円
  • 蒲焼の串(一本):16文 × 30円 = 約480円

※1文=30円で計算した場合のあくまで目安です。

これを見ると、うなぎ飯一杯が約1,920円となり、現代の感覚でもランチとしてはかなり高価であることがわかります。これが、前述したような格式の高い老舗になれば、値段はさらに跳ね上がったことでしょう。一方で、屋台で売られていた蒲焼は1串16文、約480円ほどでした。これなら、庶民でもたまの贅沢として何とか手が届く範囲だったかもしれません。

このように具体的な昔の値段を見てみると、江戸時代のうなぎが、決して日常的に食べられるものではなかったという事実がよく分かります。現代の私たちがうなぎを「ご馳走」と感じる感覚は、江戸時代から受け継がれてきたものなのかもしれません。

うなぎの値段は庶民にとって高嶺の花

前述の通り、うなぎ飯一杯が約1,920円という値段は、江戸の庶民にとって非常に高価なものでした。当時の職人の日当が400文~500文(約12,000円~15,000円)程度だったと言われていますが、一日働いた賃金の中から2,000円近い食事代を捻出するのは、決して簡単なことではありません。

このため、家族で鰻屋に出かけてうなぎ飯を食べるというのは、庶民にとっては年に数回あるかないかの特別なイベントだったと考えられます。うなぎの値段がこれほど高価だった理由はいくつかあります。

うなぎが高価だった理由

  • 調味料の価格:蒲焼に不可欠な醤油、特に濃厚な味わいを生む「たまり醤油」や、甘みを出す「みりん」がまだ高価な品でした。
  • 調理の手間:うなぎを活きの良い状態から捌き、串を打ち、火加減を調整しながら焼くという工程は、熟練の技術を要する大変な手間がかかりました。
  • 燃料代:蒲焼には火力が安定する備長炭などの良質な炭が使われることが多く、その燃料代も価格に上乗せされていました。

注意:旅うなぎの存在

江戸前で獲れたブランドうなぎは高価でしたが、地方から運ばれてくる「旅うなぎ」は、比較的安価でした。しかし、輸送に時間がかかるため鮮度が落ち、味も江戸前には劣るとされていました。庶民向けの店では、こうした旅うなぎが使われることもあったようです。

これらの要因が重なり、うなぎの蒲焼は庶民にとって「高嶺の花」となっていたのです。気軽に注文できるものではなかったからこそ、うなぎを食べる日は特別なハレの日として、人々の記憶に強く残ったことでしょう。

庶民に人気のうなぎの食べ方とは

高価なうなぎ飯や本格的な蒲焼にそうそう手が出せない江戸の庶民たちは、どのようにしてうなぎを楽しんでいたのでしょうか。彼らの間で人気だったのは、やはり屋台で売られている串焼きの蒲焼でした。

屋台の蒲焼は、一串16文と手頃な価格設定でした。これは、うなぎの量を少なくしたり、江戸前ではない「旅うなぎ」を使ったりすることで実現できた価格だと考えられます。いわば、うなぎのファストフードです。庶民たちは、仕事帰りに屋台に立ち寄り、この串焼きを一本買って、その場で頬張るのがささやかな楽しみでした。ご飯と一緒に食べるのではなく、串焼き単体をスナック感覚で味わうのが、最もポピュラーな食べ方だったのです。

また、うなぎの頭やヒレなど、蒲焼には使われない部分を安く串焼きにして売る屋台もあったようです。こうした工夫によって、庶民は何とかうなぎの味を楽しもうとしていました。高価なご馳走であるうなぎを、少しでも安く、手軽に味わいたいという庶民の知恵が、こうした多様な食べ方を生み出したと言えます。

総括:やはり高級品だった江戸時代のうなぎ

ここまで見てきたように、江戸時代のうなぎは、現代の私たちが抱くイメージ以上に「高級品」としての側面が強い食べ物でした。奈良時代から滋養強壮に良いとされてきた歴史を持ち、江戸時代に醤油やみりんといった調味料の普及と共に「蒲焼」という調理法が確立されました。

江戸前のブランドうなぎを扱う老舗では、粋な大人がお酒と共に楽しむ極上のご馳走として提供され、その値段は庶民が気安く口にできるものではありませんでした。一方で、うなぎ飯という丼文化が生まれ、屋台では安価な串焼きが売られるなど、庶民の間にもうなぎ文化は浸透していきました。しかし、それらはあくまで「たまの贅沢」であり、日常的な食べ物ではなかったのです。

それでは、この記事の要点を最後にまとめます。

  • 日本でのうなぎ食の歴史は縄文時代まで遡る
  • 万葉集にも夏痩せ対策としてうなぎを勧める歌がある
  • 蒲焼という食文化が花開いたのは江戸時代
  • 濃口醤油とみりんの普及が蒲焼の味を完成させた
  • もともと「江戸前」とは寿司ではなくうなぎを指した
  • 江戸前うなぎは品川から深川で獲れたブランド品だった
  • 関東は背開きで蒸すためふっくらした食感になる
  • 関西は腹開きで地焼きにするためパリッとした食感になる
  • うなぎ飯(うな丼)は文化年間に大久保今助が考案した
  • 老舗の鰻屋ではうなぎ飯を出さない店もあった
  • 江戸時代のうなぎ飯は一杯約1,920円と高価だった
  • 庶民は主に一串16文(約480円)の屋台の串焼きを楽しんだ
  • 庶民にとって鰻屋での食事は特別なハレの日のご馳走だった
  • うなぎの値段が高かったのは調味料代や調理の手間が理由
  • 「土用の丑の日」の習慣は平賀源内が広めたとされる

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